今までとこれから
有機農への道
ふとした疑問から始まった。”キャベツは青虫に食べられてしまうのに、そばの雑草はなぜ食べられないのか?”
私の父は母と一緒に、毎日まいにち野菜づくりに励んでいました。
しかし夏になると一生懸命に育てたキャベツが、青虫に食われ困り果てていました。
ある日私はキャベツ畑をのぞきに行きました。
(写真は青虫の食害を受けたキャベツ)
「なんとキャベツが穴だらけにされとる。こりゃおやじがなげくはずだわ」
「あれっ!おかしいぞ!キャベツの上には青虫がいっぱいいるのに、横に生えている雑草には一匹も青虫はいないぞ」
「不思議だな・・・やっぱり青虫は甘いキャベツは好きで、まずくて人の食わない草は、食べよらんのと違うやろか?」
「きっと、そうかもしれん」
「一度、草の汁を絞ってキャベツにまいてみたろか」
「きっと、にがい草の汁をキャベツに振りかけてやったら、青虫めは嫌がって逃げてしまうかもしれん」
この発想が後に私の人生を変えるようなきっかけとなり、
デザイナーである私の体の中に農業の細胞がどんどん増殖し始めました。
直感を信じて実践。
ある夏の朝、私は薬草から取り出した液を、キャベツの青虫にふりかけ、その日の夕方に再び畑に行ってみると、
思いもよらないことが起こっていました。
朝にはキャべツの上をはいまわっていた、小指の大きさほどの青虫が、
しぼんだ風船のようにダラリとして動かなくなっていました。
小枝でつついても青虫の体はブヨブヨで動かず死んでいました。
「おぉ!死んでる!死んでる!とうとうやったぞ!」
この日の感動は、息子にとって忘れられないものとなりました。
この新たな発見は、デザイナーである私の探究心をますますかきたて、
薬草を使って人々の健康を守る野菜や米づくりの方法をデザインしようと思い没頭し始めました。
そんなある日、私の頭にひらめいたのが“ハーブ”なのです。
私は以前から仕事のイライラや疲れを癒すため、自分でハーブを育てハーブティーを飲んでいました。
そこで感じたことは、
「ハーブの種類の除虫菊は、蚊取り線香に使われているし、ペパーミントは強いハッカのにおいで虫を寄せ付けん」
「ハーブは自分を守るために、虫を寄せ付けない香りを自分自身が自然と持っているんや」
「畑や田んぼの周りにハーブを植えたら虫を防げるはずやし、
ハーブの有効成分を抜き取って稲や野菜にまいたら効くかもしれんと思いつきました。
試行錯誤の連続
1995年6月より私は、ハーブの抗菌作用や殺虫作用の効果を想定して、米の無農薬栽培の実験に取り掛かりました。
この動機は「百姓であるなら農薬を使わない安全で、よりうまい米を自らが作って、これを食べるのが最高の贅沢である」
という持論から始まり、この年の田植えが過ぎ、小さな苗が大きく育ち、人間で言えば小学4年生となり幼さが消え、
ようやくたくましさが感じられる頃より、ハーブから抜き取った液を苗の葉に振り掛けたり、
その液を米ぬかに浸み込ませダンゴにして田んぼに投げ込むと言う方法で実験を行いました。
実験の場所はあぜ際4列の手の届く範囲の苗の列で、
たとえ実験に失敗して苗が枯れてしまっても、大きな被害が出ずオヤジに怒鳴られない程度の部分で行いました。
とても田んぼ全体で行う勇気はなかったのです。
しかし、こんな小規模の実験であっても、朝に振り掛けた液が濃すぎて、
苗が枯れてはいないかと気がかりでならず、昼食後には田んぼへ走って様子を見て、
また、夕刻にも再び田んぼに急ぐということを、稲刈りをするまで繰り返しました。
米づくりは1年に1回の作業であるため、実験期間は田植えから刈取までの4ヶ月に絞られます。
この間に数々の実験メニューをこなさなければならず、真夏の炎天下でも作業を続け、
おかげで真っ黒に日焼けして、デザイナーである私がこのようなことを行っていることを知らない友人たちからは、
「ゴルフ焼けかい、結構な身分だね」とからかわれるありさまでした。
この年は毎年7月中旬から8月中旬の間に、
村で恒例的に行われる水稲一斉共同防除と呼ばれている農家総出の稲への農薬散布を、
実験田では辞退して実験効果をうかがってみましたが、
この田んぼでは害虫や病気が特に発生したという結果は見られす、
収穫量への大きな影響も出ませんでした。
そして翌年からは1枚の田んぼ全体を使っての実験が始まり、
その年もさらに翌年も翌々年も順調に実験は進み、
10a当りのキヌヒカリの収穫量は540kg前後の通常の収量を確保しました。
ハーブ農法で大豊作
1998年。これまでの実験の成果に更にハーブのエキスで発酵させた米ヌカ堆肥を新たに基肥に施しました。
やがて8月稲穂が稔りだすと周りの農家から「今年の田はよう(良く)なったなぁ」と褒められ、
お盆を過ぎには「今年はようけ(沢山)とれるでぇ」と言う言葉をあちこちからいただいきました。
自身も穂をつぶさに見て、まるまると太った籾粒が最大限に膨らんで、
籾殻が割れ中の米粒が露出している籾粒を見つけて驚いていました。
そして9月、いよいよ刈り取りを始めると、コンバインのエンジン音が普通でなく重苦しく聞こえてきたのです。
これに気づいた母親は、
「機械がえらがってる。もっとゆっくり刈らんと機械が詰まってしまうでぇ」
と、興奮した声で怒鳴っています。
籾の量が多いので不通のスピードで刈り取っていても、機内が籾であふれ、
エンジンに負荷がかかりすぎて、エンジンがうめき声をあげていたのです。
刈り取った籾を持ち帰って乾燥機に入れても入りきらないので、やむなく昔ながらの天日干しで乾燥しました。
そして籾摺り、通常は30kg袋で20袋も摺り終えると大豊作なのに、
この年は24袋、25袋、26袋となっても、籾摺機から玄米が出てきて止まることなく27袋となり、つ
いに28袋を突破して、ようやく玄米の出が止まりました。
なんと14俵どり(10a当り840kg)記録破りの大々豊作です。
母親は、
「我が家でこんなに米がとれたのは生まれて初めてゃ」
「死んだお父さんがとらしてくれやったんゃ」
と、大感激しました。
私は、この思いもよらぬ大豊作により大いに自信をつけ、更なる挑戦心に燃え立つことになりました。
さらなる挑戦
1999年。21世紀の幕開けとともに私は、米の栽培方法をたねもみの消毒殺菌剤や育苗農薬、水田害虫防除剤、
それに水田やあぜの除草剤を一切使わず、これらの化学合成農薬をハーブに置き換えて、
完全な無農薬栽培に切り替え、ハーブの効果を探る実験を開始しました。
その第一歩は、種モミの消毒を農薬を使わずに60度の温湯を使って行うという、
初めての体験です。湯温が60度を超えると種モミは炊けてしまって発芽しなくなるため、
温度計と時計をにらみつつ恐る恐る慎重に10分間お湯に浸した。
この結果が吉となるか凶とでるかは、出たとこ勝負の賭けで運を天に負かすしかない一発勝負です。
その後冷水に3週間漬け込み、これを一気に30度のぬるま湯に一晩漬けてやると、
種モミは寒い冬眠の季節から急に温かい春がやってきたと感じて芽を出せば成功。
明朝、祈る思いで種モミを入れた網袋を引き上げてみると、
「出てる出てる白い芽が出てる」
「種さん、種さんありがとう。よくぞ生きていてくれたネ!」
私は、全てのモミ粒から極小の真っ白いトゲのような芽が、いっせいに突き出ている姿を見て、
わが子の誕生の時と同じように感動しました。
その次の壁は、殺菌剤を使わずに苗立ち枯れ病を防いで健康な苗をいかにして育てるか。
この問題を乗り越えるのに滋賀県農業普及センターの田中さんや常喜さんが応援してくれ、
プール育苗のテクニックを教えてくださりました。
この方法は角材で作った大きな額縁のガラスの替りに農ポリを張った簡易プールに水をため、
この中に3cmの背丈に育った苗箱を沈め、水で空気を遮り空中に浮遊する苗立ち枯れ細菌が、
水中の苗の根に付着する事を防ぎながら苗を育てる技術です。
このような試行錯誤を何度も何度も繰り返し、有機農業を営んできました。
私自身が薬漬けになっていた。
日本農業の実状を心配して取組みだした有機農業が、今日では、どうも持続的な地球の発展を実現するための中心的役割を果たすように思われ、私の大事な孫たちと同じ、世界の子供たちが地球市民として安心して生存できる地球にするため、体力のあるかぎり頑張らなければと思っています。
私が有機農業を志したきっかけは、1993年の米の大凶作で、米屋の店頭に米が無くなるという、バブル景気で有頂天になっていた日本を襲った米パニックでありました。私たち農家は米は国の倉庫に有り余るほどあって、毎年この生産過剰を抑えるため無理やり生産調整をさせられているのに、米が無いとは信じられない驚きでした。
この米騒動により私の農業を見る目が変わりました。当時の日本農業は、農村の都市化が進み農家の心が農業から遠ざかり、農薬や化学肥料を多投しつつ、農機具への過剰投資を続け、経営利益を度外視した効率優先の手抜き農業が行われていました。私は多くの農家のこの姿と、ベトナム戦争で使われた枯葉剤と同じ除草剤によって雑草が枯らされ、水田では水田除草剤によって水中の生きものが雑草もろとも抹殺されて、土壌表面が死の世界に化している情景を見て“こんな農業で生産したものを食べていて人間は大丈夫だろうか”という疑問と不安がこみ上げ、さらに身近な川がごみで汚れ、魚や貝や蛍などの水辺の昆虫の姿がどんどん少なくなっていくありさまを間近にして、農村の豊かな自然環境が次第に衰えていくことに寂しさと、もったいなさを強く感じるようになりました。
そんな時、偶然に私の目に入ってきたのが“身土不二”という言葉でした。この4文字には、人の命と健康は土と一体であると言う意味が込められていて、私が危惧していた自然環境汚染と人の健康の関連性が、はるか遠い昔より言い表されていることに心を打たれ、この言葉が私が有機農業を進めるための重要な心の支えとなり、
土を作ることが人の命のみでなく、全ての生きものの命を育むための根本であり、そのもとに人と自然が共生することが何よりも大切で、人間が自然界の欲張った征服者となり、自然を我が物顔で好き放題に荒し続け、自らもそのシッペイ返しを受けている現実の広がりを身にしみて感じたからです。
絶滅危惧種が畑に。
私は2007年5月、代かきを行なった田んぼの水面全体にイチョウウキゴケが大量発生しているのを発見、この浮き草は、環境省のレッドデーターブックで絶滅危惧T類に指定されている珍しい植物です。さらに7月には同じ田んぼでサンショウモが自生しているのを見つけました。当植物は、環境省レッドデーターブックで絶滅危惧II類に指定されていて、今日では容易に見られなくなった植物です。
私は長年の有機農業の継続によって、水田全体が清らかになり4、50年も土中で眠っていた種が目を覚まして姿を現したのだと思っています。古老の話ではこの2種類の珍しい植物は、水田除草剤を使う前までは、よく見かけたそうで、これが長年の間、有機農業を続けたことによって、水田全体が清らかになり4、50年も土中で眠っていた種が目を覚まして姿を現したのだと思われます。私は、このことによって有機農業が壊れてしまった自然環境の再生と、安心・安全な農産物の生産によって、人々の健康を維持するための中心的役割を果たすものであることを強く自覚しました。
これらの絶滅危惧植物は、生活排水や肥料や農薬の化学物質による汚染によって、全国的に見られなくなった希少植物となってしまっているわけですが、これが当RDRの水田で見つかったことは、長年の有機栽培の継続によって、水田の自然が50年以上も前の私の子供時代の姿によみがえってきていることに気付き感動しています。
そして、先にも述べました、私が有機農業の信条としている『身土不二』の考え方が、これら2種類の希少植物の発生によって、この水田の土が清らかによみがえり、その土に育まれて絶滅の危機にひんしている植物の命が再生したことにより実証され、自分の行なっている仕事は、「安心・安全な米づくり」を超えた「命を育む環境づくり」であることを知らされました。今後もこの信条を大切にして進んで行こうと思っています。
私たちのいま
さて、皆様は今年の夏の異常な暑さを経験され、地球温暖化による異常気象の実態を身にしみて感じられたことと思います。私自身は毎日が自然と密接にかかわりながら暮らしていますから、より変化を敏感に感じる体質になっています。今感じますことは、地球は取り返しのつかない方向に進んでいるのではないかということです。 その兆しとして、
1)ツバメやすずめの数が以前よりも極端に少なく、昆虫の種類が減っている。
2)田畑でトノサマガエルの姿を見ることがまれで、夏の夜のカエルの大合唱がない。
3)日照不足、集中豪雨、雨不足、異常高温など極端な異常気象が生じている。
このような尋常でない変化は、世界の多くの人たちに危機感をもたらせ、命を守るために自然環境の大切さを真正面から考え出し、私が有機栽培の根本としている中国の古い歴史の中で生まれた『身土不二』の考え方が、アメリカでは、『ロハス』という(地球環境(大地)と健康(身)を最大限に大切にした生活をすることが、人類と地球が共存共栄できる持続可能な社会をつくりだす)言葉で現代によみがえって、これが世界中に広がりつつあります。